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2006年9月

そうちゃんと折線グラフ

たぶん、そうちゃんも、”こんな予定”ではなかった。

そうちゃんを見ていると、ふと、そう思う時がある。

 

昨日、何気にソファに座ったら、ソファの下にプリントが落ちていた。

プリントを手に取ると、それは、”そうちゃん(長男・10歳・知的障害アリ)の発達は、今、どのくらいのレベルにあるのか”を記した折れ線グラフだった。

(その、折れ線グラフは、”模倣・粗大運動・言語理解・微細運動・・・”など、それぞれの領域で、今、そうちゃんが、健康な子供だったら、どのレベルにあるのか、、、というのを評価したもの。

健康な子供は、バランスよく成長していくので、線はそれほど上がったり下がったりはしないのだけれど、そうちゃんの場合は、かなり傾斜のついた、ガタガタの折れ線グラフができあがる。)

 

それを見て、ハッとした。

粗大運動は、2歳ちょっとくらい、、、と、次男(1歳4ヶ月)を追い越しているけれど、言葉を理解する力や言葉を発する力、微細運動(こまかい手先の動きなど)というのは、次男から追い越されていた。

もちろん、そうちゃんも、だてに歳は、とっていない。

”今まで、10年生きてきた。”という”経験”に基づく知恵や生活の流れを知る力は、私からみても、”そうちゃんの方が、まだまだセンパイ!”と思うことは、いっぱいある。

でも、そういう事を考慮した上でも、つくづく、私も、そうちゃんは、この折れ線グラフの通りの発達レベルだと、昨日ソファの上で思った。。

 

養護学校の4年生であるそうちゃんは、体は平均よりグッと大きいので、最近は、もう、どこからみても、お兄ちゃん。

背だって、私と変わらないくらいになった。

靴だって自分ではけるようになったし、Tシャツも後ろ前にはなるけれど、自分で着れるようになったし、ズボンだって、これまた、後ろ前になったり、裏返しのままだったりするけれど、立派に(?)自分で着れるようになった。

だから、私の中では、少しずつではあるけれど、着実にお兄ちゃんになってきたと思っていた。

だからこそ、このプリントをジーッとみていたら、あらためて、「ひゃ~っ!!」。

私は、思わず声を出した。

 

つまりは、たった、昨年の5月に生まれたばかりの、ロンパースをはいて、おしりフリフリして歩いている、あの次男の方が、実際、生活していく中で、できることも、わかることも多いのだというのだから、、、。

昨夜は、ビッグなそうちゃんと、まだまだおチビさんの次男がいっしょに戯れている姿を見るにつけ、「なんだかねー。。。」と、力が抜けるような、不思議な気持ちが押し寄せた。

 

けれど、一方で、知的面での成長が伸び悩むからと言って、心の成長や欲求も伸び悩むわけではないことは、そうちゃんを見ていて、実感するところ。

この辺が、とても難しい。

むしろ、心の中の、漠然とした欲求は強くなるのだけれど、そうするためには、手足をどういう風に動かしてよいのか、それすらわからない、、、といったような、もどかしさが最近のそうちゃんにはある気がする。

きっと、人間、無意識の中、考える時は、頭の中で、いろんな言葉を並べているのだと思う。

けれど、そうちゃんには、その並べる言葉がごくごく少ないので、よりいっそう、事を理解するのが難しくなり、混乱するのだと思う。

 

次男は、まだ、そんなにたくさんの言葉をしゃべれるわけではないし、なんと言っても、この世に生まれて1年4ヶ月なので、そうちゃんに比べると、経験も少ない。

にもかかわらず、もう、長女といっしょになって、よく遊ぶ。

ちょっと険悪になると、その空気もよめるし、いろんなものに興味をもてるし、一度できたら何度でも、飽きるころもなくやり続けるという根気と集中力をもっている

一方、そうちゃんは、からかうことや、自分のいう事を真似して言わせようとしたりしては楽しむけれど、それは一方的で、かけあいのような遊び方は、まだできない。

その辺が、この折れ線グラフの物語るところ。

 

最近、そうちゃんは、妹(長女・3歳)に嫌がらせをすることに、全エネルギーを注いでおり、妹をたたくことさえある。

妹がテレビを見ていたら、”チャンネルをかえる””スイッチを消す””リモコンをとりあげる”という方法で、まずは、妹に嫌がらせ。

そして、そうちゃんの台本どおり、妹は、「そうちゃん!!」。

怒って泣き出す。

台本どおりであったにもかかわらず、妹のその反応を見て、そうちゃん、ものすごくカーッとした表情になり、妹をたたく。

、、、というもの。

私が注意すると、ますます、そうちゃんは、ワーッとなって、怒りの表情をあらわにし、最後には、涙をポロポロながす。

妹と弟が小さいだけに、私は、”そうちゃん、小さい子をたたいちゃダメよ!”と、私も、しっかりそうちゃんに言い聞かせるも、効果ナシ。

この二人の間に、どう、私が入ろうかと、考えあぐねていたところだった。

 

けれど、やっぱり、私が気がつかないところで、そうちゃんにしてみれば、”やりたいけどできない悔しさ”、”自分の気持ちを言葉にできないもどかしさ”が、いっぱい蓄積されて、そういう行動に及んだんだろうなあ、、、と、折れ線グラフを見つめていたら、胸が痛んだ。

ズンズンと音をたてて成長していく妹と弟が目の前でチラつくのだから、そうちゃんだって、心穏やかではなかっただろう。

ちょっと時間はかかるかもしれないけれど、このへんは、一緒に、ゆっくりと、そうちゃんのからんだ心をひもといていきたい。

 

でも、、、どうやって、、?

う~ん、そこが問題。

言葉を理解する事が難しいそうちゃんは、真っ向勝負では、勝ち目がない。

(私は、そうちゃんにベラベラと言い聞かせながらも、あまりの手ごたえのなさに、”のれんに腕押し~。” ”馬の耳に念仏~” ”そうめんで首をつる~”というフレーズが何度、頭をよぎったか数知れない。)

そうちゃん相手では、”常識”は通用しないのだ。

かなりのユーモアと想像力、そして、アイディアが必須。

手ごわいのだ。。

けれど、そうちゃんには、”生きにくい”という背景があることだけは、これからも、心にとめておきたい。

どこか、壁にでも貼っとくかなあ、、、この折れ線グラフ。。。

 

たぶん、そうちゃんだって、”こんな予定”ではなかった。

だから、こんな時くらい、そうちゃんの力になりたい。。。

 

P。S。

「姉の本」にコメントをたくさん、ありがとうございました。

母・よしこは、「よしこさん、ものすごい人気ね~!!」と、自分の人気ぶりに驚いていました。

私のブログに登場するよう誘ってみましたが、よしこは言いました。

「ママが文章を書くと、きっと、みんな、現実を知ってガッカリするわ~。

夢や幻は、姿が見えない、、、ってところが、いいのよ~。」

 

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姉の本

姉が料理の本を出版してから、かれこれ8年くらいたつ。

”だれか来る日のメニュー”(文化出版局)という本が、姉が初めて出版した本なのだけれど、最初に、本屋さんで、あの本を目の前にした時のドキドキ、そして驚きは、今も忘れられない。

                                                              

”姉が本をだす”という話を聞いたのは、姉からではなく、母・よしこの口からだった。

ある日、よしこが私の家に遊びに来て、いっしょにお茶していた時のこと。

よしこは、「あっ、そうそう、ちはる(私のこと)ちゃん。」と言って、”そーいえば、思い出した”という風に、”姉が本をだすらしいこと”を私にきりだした。

その時のよしこの言い方が、あまりにも緊張感がなかったのも手伝って、私がよしこに言ったのは、「、、、えっ? ママ、”ほん”って、なーに?」という気の抜けるようなひと言。。

”姉”と”本をだす”という事が、あまりにも結びつかなかった。

すると、よしこは、「いやー、り香(姉のこと)がねー、そう言うのよ。 ママにも、どういうことだか、さっぱりわかんないんだけど。。」。

続いて私がよしこに言ったのは、「ママ、、、、”本”って、何の本??」。

私には、どんなジャンルの本かさえも、想像がつかなかった。

すると、よしこは、「う~ん、なんか、お料理だとかなんとか言ってたわよ。」。

(二人、顔を見合わせ、しばし沈黙。。)

私とよしこの会話は、こんな感じだった。

                                                                  

小さい頃から寝ても覚めてもマンガを書くのが好きで、漫画家になり、マンガ本をだす。

小さい頃から写真を撮るのが好きで、フォトグラファーになり、写真集をだす。

そういう順序を経て、本というものは書店に並んでいる、、、というイメージが強かった私は、姉が本を出すときいても、書店に並ぶような本のことだとは、その頃、想像もしていなかった。

もちろん、姉は、お料理を作るのは好きだったけれど、姉の仕事は、お料理とは関係のない、広告代理店。

だから、ますますピンとこなかった。

                                                             

で、その時、よしこと二人、首をひねりひねりして、考えた結果。。

”姉が、本をだす”ということは、おそらくこういう事だろう、、、と、予想した。

”おそらく、姉は、会社内の新聞かなんかに、「ミニミニクッキング」のようなものを投稿しているんじゃないか。。

それが、なかなか好評で、小さな冊子にまとめられる事になったんじゃないか。。。”。

おそらくは、そういう類の本なんだろう、、、というもの。

姉は、当時、会社の方を家に招いて、手料理を作っては、ワイワイしていたので、それがもとで、そういうことに発展したんではないか、、、という私たちの読み。

                                                          

私は、それまでにも、何度となく、姉には驚かされたり、泣かされたりしてきた。

たとえば、、、。

姉は、いつも突然にきりだす。

「ねえ、ちはる(私のこと)ちゃん。 りか、海外青年協力隊に参加することにしたから。 もう、決めたから。」。

とか、アメリカ留学中も、「ちはる(私のこと)ちゃん、、、。よくきいて。 もう、り香、日本に住むことはないと思う。 おそらく、こっちに永住する事になると思うよ。。結婚も、国際結婚だね、きっと。。 でもね、アメリカと日本は、飛行機乗れば、なんて距離じゃないから、いつでも会おうと思えば会えるんだから。 心配しないで、ちはるちゃん。 大丈夫よ。」。

(海外青年協力隊の話を聞いた時は、「り、、、りかちゃん、、、、なんでまた、、、。」と、私は、茶の間で呆然と立ち尽くしたものだ。

だって、この時、私は、のん気にテレビを見ていた。

そんな無防備な私の横で、姉が、何の前置きもなく、こんな事をいうものだから、驚いたなんてもんじゃなかった。。

アメリカ永住宣言をされた時は、なんとか考え直してくれないか、、、と、私は、涙を、、、鼻水までだして、受話器を片手に号泣したものだった。)

                                                                   

が、そうキッパリ宣言したにもかかわらず、姉は、海外青年協力隊になることも、アメリカ永住することもなかった。

ちゃっかり日本にいた。

それどころか、私が、「り香ちゃん、、、。 そういえば、ちはる、あの時は、り香ちゃんが、あんな事言うもんだから、ビックリしたよ~!!」と言っても、姉は、ハッハッハー。

豪快に笑い、「そんなこと言ったっけ??? ちはるちゃーーん!!」とのけぞり、どうやら、言った記憶さえなくなっているらしかった。

                                                               

だから、”本を出版する”と聞いた時も、どこまでが”ホントのこと”で、どこからが、”単なる姉の希望”なのか、そのへんが私の中で、ぼやけた。

それは、家族も一緒で、父までも、「り香の言うことだから、、、。 この先、どうなるか、わからんな。。」と、妙に落ち着いていた。

きっと、”家族の誰かが本を出版する”なんてことになったら、飲めや歌えやの大騒ぎで、大盛り上がり、、、になりそうだけれど、そういう背景(姉の過去の言動)も手伝って、なぜか、”一人盛り上がる姉”を囲む家族は、意外にも、ひっそりとしたものだった。

かなり懐疑的だったといってもいい。

                                                             

あれから、8年。。

姉は、お菓子・ワインと枠を広げながら、気がつけばたくさんの本を出版した。

そして、気がつけば、私も、毎回、姉の本を楽しみにしている一人。

                                                           

私は、本屋さんが好きで、暇がある時は、本をゆっくり手にとって見たりするけれど、今だに、”お料理の本コーナー”へ行くときは、胸がドキドキする。

で、姉の本のコーナーに行くと、家にも同じ本があるにもかかわらず、必ず手にとって、あらためてサササッと読んだりする。

本屋さんで読むと、”姉の本”という感じがしなくて、またまた新鮮だったりするのだ。

で、姉の本の中に”そうちゃん”がでてくると、コリもせず、毎回、「そうちゃんって、、、うちの、あの、そうちゃん??」と、ドキッ!

”お料理の本コーナー”で、姉の本を手にとってる人がいたりすると、ドクドクと、なぜか胸の鼓動は高鳴る。

この間、行った本屋さんでは、「行正 り香」の名札が逆さになっていたので、なんか、”余計なお世話”な気もしたけれど、サッと名札をぬいて、ちゃんと正したり、、、と、なかなか健気な妹でもある。

                                                                

もし、本屋さんで、姉の本を手にした時、背後からヌーッと、何気に現れる女性がいたとしたら、、、。

それは、私かもしれません。。

                                                                 

P.S.

「おいしい??」にコメントを、どうもありがとうございました。

ここで、よしこの名誉のために言っておきましょー。

よしこのお料理は、ホント~に美味しいです!

一度、「”砂糖”と”塩”を勘違いした時の”すき焼き”」を口にした時は、驚きのあまり、イスから飛び上がりましたが、そういうドジがない限り、サイコーです。

やっぱり、”おふくろの味”は、私の作るお料理の原点になっています。。

                                                              

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「おいしい??」

気がついたら、次男(1歳)が、ちょこちょこおしゃべりできるようになった。

”パパ”や”ママ”とか、”電気”や”足”などは、ずいぶん前から言っていたけれど(この、“ずいぶん前”というところが、いかにも、”三人目”らしい。 三人目ともなると、いつ頃立って、いつ頃歩き出したのかさえも、まったく記憶がなかったりして。。)、会話らしい会話を始めたのは、ここ2週間くらい。

で、最初の記念すべきセリフは、「おいしい??」

 

最近、次男は、ごはんをひとくち、口にした瞬間、「おいしい??」と言っては、家族一人一人に、聞いてまわる。

(そして、「おいしいよ。」とみんなが口々に言うと、とーってもうれしそうな顔をして、ニーっと笑う。)

このセリフを耳にした私のダンナさんは言った。

「う~ん、、、、。 初めてでた会話が、”おいしい??”っていうのは、なんとも、うちらしいねー。」

聞けば、自分では気付いていなかったけれど、私も食事中、しつこいほど、みんなに、「おいしい??」 「おいしい??」と言っているらしい。

で、この”美味しい”には、ルーツがあった。。。

 

私が育った家では、母・よしこの「ごはんよ~。」というかけ声がかかるやいなや、駆け足で食卓へ。

そして、何をしていたとしても、即刻きりあげ、テレビがついている時は即座にバチっと消して食卓へ直行する”決まり”になっていた。

さもないと、「ほらー。 なにモタモタしてんの~? せっかくなのに、お料理、冷めちゃうじゃなーい!!」「ごはん、食べないの~?!」という、よしこの怒った声が響く。

どんなにテレビが盛り上がっていたとしても、”テレビをみながら、ごはんをついでのように食べる”ということは、許されなかった。

だから、私たちは、食事の時間は、ひたすらに、”食べる事”だけに集中した。

 

で、もうひとつ、よしこから要求されること、、、。

それは、「おいしい。」と言う事。

(しかも、これ、1回言えばいいというものではなかった。

このセリフは、食事中、何回も言わなければいけない雰囲気だったのだ。

、、、子供ながらに、私は、そう読んだ。)

 

結婚して、しばらくした頃、ダンナさんが私に言った。

「ちはる(私のこと)ちゃんの家って、、、オモシロイね。。 ごはん食べる時、みんな、”おいしい””おいしい”って言うね。」

「そう、、、言うね。 、、、でも、それって、オモシロイこと?」と私。

すると、ダンナさんは、ニタリと笑いながら、「ごはんを食べた時、”おいしい”って言うの、それはわかるよー。 それは、わかるけど、俺がオモシロイと思うのは、ちはるちゃんもお父さんもりかさん(姉のこと)も、食べる前から、”おいしい!”って言ってる時があるやろー?」

「は~、、、? そーおー?」思わず私は、首をかしげた。

でも、そう言われてみれば、そんな気もする。

 

私が小さい頃、何も言わずに二口、、、三口と、黙ってごはんを食べていたら、よしこは必ず、「おいしいの? おいしくないの? どっち?!」。

そして、間髪を入れず、「あ~ら、一生懸命作ったのに、味がないみたいねー!」と皮肉って言った。

で、そういわれた後に、「あっ、、、おいしい!」とあわてて言っても、もう遅かった。

よしこは、さっきの威勢のよさとはうって変わり、「ママが、せっかく作ったのに、、、。」と言って、キッチンでガックリうなだれた。

そういう姿を何度となく見たので、自然と、私たちは、テレビのグルメレポーターも顔負け。

口にいれた瞬間、どうかするとまだ噛まないうちから、とりあえず、「ママ、おいしい!!」

、、、だから、ダンナさんの言っていたように、もしかすると、おかずが目の前にだされた瞬間、、、そう、口にする前から「う~ん、これ、おいしいね!!」と言っていたとしても、不思議はなかった。。

 

「”梅干”と”だ液”」の反射の関係ではないけれど、私の場合、「”食べ物”と”おいしい”」は、いつの間にか私の中で、なぜか、セットになっていった。

そういう感覚を長い間、無意識のうちに共有してきた家族同士は、よかった。

が、そんな光景を見て驚いたのは、実は、ダンナさんが初めてではなかった。。

 

私と友人がごはんを食べに行った時。

オーダーしたお料理が、目の前に運ばれ、私たちは、「いただきまーす!」。

で、誰よりも先に私が「おいしい!!」。

その後も、友人との話が一段落するたびに、、、いや、話を聞いて相づちしながらも、頻繁に私の口から出る言葉は、「おいしい!!」「ねー、おいしいね~!!」。

 

が、食事が終わり、お店を出た瞬間に、私は、友人に、「ねーねー、今日のお店さ、うわさほどじゃなかったね。 味がうすめだったし、いまいちだったね~。」などと、サラリと言うものだから、友人は、「はーっ、、、???」。

目をパチパチさせて、「だって、、、。 ちはるちゃん、食べてるときずっと”おいしい”って言ってたよねー?!」。

私は、ことの理由を細かく説明し、「だからさー、あれは、私にしてみれば”反射”みたいなもんなんだよね~。」と言うと、友人は、「あー驚いた。。そーでしょー?! いや、私も、このお料理、ちょっとなーって思って食べてるのに、ちはるちゃんが”おいしい、おいしい”って食べてるから、そんなにおいしいかなあ、、ってずっと不思議に思ってたとこだったー!」。

 

私は、長年、家で、「おいしい!」「おいしい!」と言い続けてきた結果、なんと、”美味しくないと思った時”でも、ひとたび口にすると、「おいしい!」「おいしい!」と言わずにはいられなくなってしまったのだった。

そのことは、私のまわりの友人たちを驚かせた。

友人たちは、一様に、目を白黒させた。。

 

けれど、一度身についた習慣というものは、恐ろしいもので、なかなかぬけないものらしい。

それどころか、この習慣というものは、どうやら、伝染していくものらしい。

だって、私の実家でごはんを食べる時、「う~ん、おいしいですっ! お母さん!!」と、まっさきに声をあげるのは、今や、私のダンナさんだったりする。

で、時おり、「あっ、、、。 まだ食べとらんかった。。」なんて、ボソっと言ったりしているのを、私は、決して聞き逃さない。。。

 

P.S.

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手作り家~その後

今日は、義父の作った家のその後について。。。

 

私のダンナさんが3歳の時に、完成したその家には、4年間住んだそうです。

その家には、家族4人で住んでいたのですが、子供たちも大きくなってきて、手狭になったため、手作り家の隣に、今度は、大工さんに頼んで、家を新築。

でも、手作り家は、すぐに取り壊されることはなく、借家として、かすことに。。。

その後、ダンナさんが高校生の頃、またまた家が手狭になったため、大工さんに頼んで、増築。

その時、手作り家は、取り壊されることになったそうです。

(だから、手作り家は、14年程、存在していたことになります。)

 

思えば、私は、義父から、”家を自分で作った時のエピソード”は、何度も聞いたことがあるのですが、”家を壊した時のこと”は、まったく聞いた覚えがありません。

義父は、写真が好きで、小さい頃からの写真を大切にアルバムにおさめています。

ちょっと、「お父さんの小さい時って、、、。」

「手作りの家って、、、。」

「お父さんが結婚した頃って、、、。」

、、、などと、話をきりだそうものなら、義父の「ちょっと待っててねー。」という言葉と同時に、5分もたたないうちに、私の前には、昔のアルバムが広げられています。

だから、”手作り家の写真”も、そんな、たくさんの写真の中のひとつ。

そのモノクロ写真には、やさしく愛情深い眼差しでフィルターをのぞく、義父が見えてくるようでした。

 

あくまで、ここからは、私の想像ですが、家が取り壊された時、もちろん、寂しい気持ちはあったと思いますが、きっと、義父の中では、カメラのシャッターを押した瞬間に、手作り家は、”楽しかった思い出”として、アルバムの中にそっとしまいこまれたのだと思います。

物を作ることが好きな人、何かを創造することが好きな人は、実は、完成を目指して、作っている過程が一番楽しく、充実しているのではないかと思います。

もちろん、完成したときは、飛び上がるほどうれしかったと思いますが、完成してしまった段階で、目は、次なる目的に向いている、、、という気がします。

 

現に、義父は、今も、いろんな物を作ったり、好きなことには、ものすごい情熱をかけて、没頭しています。

そう、ここ2~3年で言うと、”蜂みつ作り”

これは、私も、聞いてびっくり、見てびっくり!

ある日、遊びに行くと、義父は、突然に、「あのね、お父さん、蜂みつ作ることにしたの。 どのくらいかかるかわからないけど、うまくいったら、美味しい蜂蜜食べさせてあげるからね! 待っててね~。」

どうやら、義父の隣の家の方が、蜂みつをつくっているらしく、義父が”蜂みつの師匠”とあおぐ、隣のおじさんに、”蜂みつ作りHowTo”を習い、まさに今、ハチの巣箱を作っている最中だというのです。。。

 

で、できましたよー!

あま~く美味しい天然100パーセントの蜂みつがっ!!

、、、でも、蜂みつがとれるようになるまで、1年はゆうにかかりました。

1年目は、暑さのため、ハチの巣がとけて、巣箱の下におちてしまって、ダメでした。

その時の、義父の悲しそうな顔ったら、ありませんでした。

でも、その話をした直後、「来年は、頑張るよー!!」と、もう来年にむけて気持ちは切り替わっていました。

で、2年目に、ついに、大成功!!

蜂みつが、わんさかとれました。

親族に配っても、ご近所に配っても、まだまだあまりある、たっぷりの蜂みつができました。

私が、義父の家に遊びに行くたびに、「ちはる(私のこと)さん、蜂みつは? なくなったら、いつでも言ってねー。 いっぱいあるからねー!」と言われるほどでしたから。。。

で、今年は、蜂みつ作り・3年目でしたが、今年は、スズメばちに巣箱の中のハチを襲われ、ダメでした。。

残念!

(蜂みつ作りの話は、話すと長いので、またいつかブログに書きたいと思います。)

、、、そんなわけで、いつでも、何かに、夢中になっている義父です。

 

それにしても、、、私のブログに登場しているとは、つゆ知らず、今ごろ、くしゃみのひとつもしていることでしょう。。。

 

P。S。 

この間、母・よしこに、「ブログ、アップ(更新)したよ~。」と言ったら、「あーら、知らないの? 随分、落ちちゃったじゃない。 ダウン、ダウン。」と言っていました。

どうやら、よしこは、ランキングのことを言っていたようです。。

いやー、でも、私も人のことを笑ってられないくらい、パソコンのことを知りません。

ついこの間まで、”文章をコピーして、貼り付ける”という事すら知らず、たまたまそのやり方を姉から聞いて、そんな方法があったのかと、ビックリしたくらいですから!

(だから、それまで、アップする時は、また最初から文章入力していたので、そりゃーもー、大変でした、今思えば。。。)

 

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義父とそうちゃん号

義父は、家まで作ってしまうくらいだから、本当に、”物を作ること”が好き。

義父の家に遊びに行ったある日、「ちはるさん(私のこと)、お父さんの宝物を見せてあげる。」と言って、連れて行かれたところが、家の敷地の端っこにある小屋。

小屋のドアを開けると、そこには、所狭しと、いろんな”工具”がきっちり整然と納められており、壁面をタンスがグルリと囲んでいた。

そのタンスの引き出しの中には、ネジやら釘やら、いろんなものがぎっしり入っていた。

で、これらの小さな部品は、買ってきたものより、”とってきたもの”の方が断然多いらしかった。

 

義父は、廃品回収の時、いろんなところに足を運んでは、これから捨てられる自転車などから、使えそうな部品やなんかをシッケイ。

それをこのタンスに入れ、何か作るときのために備えているらしい。

「もーねー、廃品回収の日は、宝の山よ!! お父さんには、なにもかもが宝物に見えるの。 だから、その日が待ち遠しくてねー。」

そう言って義父は、へへへっと笑った。

そして、「お父さんは、ここで何か作ってる時が一番幸せで、いちばんくつろぐの。」と言って、目をキラキラさせながら、小屋を今さらのように見回した。

 

そんな義父に、私は、何度となく、いろんなものを作ってもらった。

なかでも、”そうちゃん号”は、私のお気に入り。

”そうちゃん号”は、三輪車(大人用)の後ろのカゴ部分に、”そうちゃんが座れる座席”を設けたもの。

発案者は、私。

で、私のイメージ通り、忠実に義父が作ってくれたもの。

 

そうちゃん号が誕生したのは、今から6年前。

そうちゃん(長男・10歳・知的障害アリ)が、幼稚園に通っていた頃にさかのぼる。

幼稚園の送迎バスのバス停まで、大人の足で行けば、たった10分くらいの道のりだったけれど、ようやく歩きだしたばかりのそうちゃんを連れて行くには、近くて遠かった。

だから、最初は、バギー(そうちゃん用の車椅子)にそうちゃんを乗せて。。。

けれど、問題は、雨の日。

大きな重たいそうちゃんを乗せたバギーを押しながら私が傘をさして歩くことは、とても大変だった。

、、、というより、バギーは、両手で押さなけば、右へ左へ蛇行するので、結局は、傘をさすのをあきらめ、私はぬれてしまうことに。。

 

そうこうするうちに、だんだんと、そうちゃんの足も強くなってきたので、思い切って、歩きでバス停まで行くことにした。

が、、、。

そうちゃん、行きは、幼稚園行きたさに、心も踊り、バス停までハリキッテ歩いて行くので、問題はなかったのだけれど、帰りは、なかなかそうはいかなかった。

幼稚園の送迎バスから降りても、そのまままっすぐ帰ろうとしない。

バスを見るのがこの上なく好きで、バスが走っているのを見たくて見たくて仕方がない。

「あと1台だけよ~。」と言っては、一緒にバスをみるのだけど、なかなかこれがエンドレス。

で、”これじゃー、きりがない”と、無理に連れて帰ろうとすると、そうちゃんは、道にねころがったり、泣き叫んだり、、。

もちろん、雨の日だって、おかまいなしなので、泥だらけになることもあった。

 

そんな日が続いたので、”これはいけない、、、。”と思って考えたのが、この自転車。

私は、”こういう風に作って欲しい”というメモを義父に渡すと、「うん、できる。 できる。 やってみよう。」と言って、目を輝かせ、さっそく、三輪車を自宅までトラックで運び、持ち帰った。

それから、1週間ほどたって、義父が持ってきてくれた三輪車を見た時は、皆で、思わず、いっせいに歓声をあげた。

「うわーっ すごーいっ!!」

後ろのカゴ部分には、イスが組み込まれ、そうちゃんが落ちないように、ちゃんと、シートベルトまでついていた。

そして、サドルの後ろには、そうちゃんが握れるように取っ手もついていた。

”必要は発明の母”というけれど、そうちゃん号は、まさにそれ。

 

そうちゃん号が来てから、それまでの私の悩みは、一気に解決した。

毎朝、そうちゃん号にすっと乗せ、帰りもサッと乗せ、家へ。

送迎にかかる時間は、大幅短縮となった。

そうちゃんも、そうちゃん号が好きなので、それに乗ること自体がうれしいらしく、大喜び。

その上、雨の日だって、三輪車なので、滑って倒れる事もなく、危なくない。

私は、片手でハンドルをにぎり、片手で傘を余裕でさせた。

もー、気が抜けるほど楽になった。

 

あんまりうれしくなった私は、”雨の日に、カンペキにぬれない方法”について、研究してみたくなった。

で、その結果、私は、雨靴に、レインコートの上下(下は、ズボンタイプ)、頭にはレインハットをした上、透明の傘をさす(これで、視界がぐんと広がる)。

そうちゃんは、レインコートを着て、やはり、レインハット、そして、カゴ全体に、ビニールカバーをする。

、、、といういでたちに。

完全防御の私たち。

はたからみると”スゴイ格好”だったかもしれないけれど、もう、私は、完全に楽しんでいた。

雨の降る日が待ち遠しかったっけ。。

(ちなみに、今はもう、下に子供が二人いるので、そんなことをして楽しむわけにもいかず、、、。

”雨の日は、雨の日らしく、みんなでぬれましょー!”と、ガガッと180度、方針変更。。)

 

そうちゃんが大きくなりすぎて、そうちゃん号に乗ることは、もうできないけれど、そうちゃん号は、今なお健在。

お次の出番を待っている。。

 

P.S.

いちこさん、ブックマーク、どうもありがとうございますっ!

 

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義父と手作りの家

”ラ~ラ~ ラララララ~

ラ~ラ~ ラララララ~

ララララ~ ラララララ~

ラララ~ ラララ~ ラララ~”

今日は、義父の登場。。

 

”義父”を頭に思い浮かべると、不思議とこの、ドラマ“北の国から”のテーマソングが流れてくる。

このテーマソングと共に浮かぶ五郎さん(純君と蛍ちゃんのお父さん役:田中邦衛さん)。。

そして、、、この、五郎さんと義父がだぶる。。。

それは、義父が、北海道に住んでいるからでもなく、五郎さんに顔が似ているからでもない。

たぶん、、、”昔、自分で家を建て、家族みんなで、そこに住んでいた”という義父から聞いた話が、あまりにもインパクトが強かったからだと思う。

その話と、”ドラマで五郎さんが、自分で家を建てていたシーン”とが重なって、私の中で、いつの間にか、こういう”連鎖”になったのだと思う。。

 

私のダンナさんが3歳から7歳まで住んでいた家は、義父の手作りだった。

畳だけは、さすがに手作りするわけにはいかなかったらしいけれど、既製品を買ったのは、畳、ただそれだけ。

あとは全て、手作り100パーセントだったという。

 

手作り家に住む前、義父たち家族は、会社の社宅に住んでいた。

(いつか、家を建てるときのためにと、土地だけは買っていたらしい。)

そんなある日、会社の都合で、思いがけず、社宅を出ていかなければならなくなったというのだ。

まだ、家を建てるのは先のことと計画していた義父は、これからどうしようか迷った。

家を建てるような資金もないし、、、。

そんなこんなを会社のセンパイに話していたら、そのセンパイは言った。

「あなたなら、家、建てられるよ。 家、自分で作ったら? やり方がわからなかったら、いつでも、アドバイスしてあげるから。 私も手伝うよ。」

 

そのセンパイ、物をつくることが大好きで、とにかく、そこらへんにある材料でチャッチャッチャと作ってしまう、何でもできるスーパーマンのような人。

で、仕事をするかたわらで、素人ながら、なんと、家を3棟も建ててしまったという。

枠にはまらない、なんともスケールの大きい人で、会社の人気者だったそうだ。

もちろん、義父は、大工さんでもなんでもないので、フツウだったら、そんなこと言われても、ここは、「えーっ?! そんなこと~!」。

”アッハッハーッ!”と、笑い流すところだと思う。

が、義父はちがった。

「、、、ホント? 、、、自分にもできる?  じゃ、、、やってみようか。。。」

義父の家作り、、、それは、工具を少しずつ買いそろえるところからはじまった。

仕事が終わってから、毎日、現場に直行。

仕事がお休みの日も、もちろん現場に直行。

設計から始まり、材木を集め、窓をも木枠にガラスをはめ込んでつくったらしい。

 

「へ~。 センパイに手ほどきをうけながら、二人で力を合わせて、コツコツコツコツ作ったんだなあ~。」と義父の話を聞きながら、私は途中まで、そう、思っていた。

が、実際は、だいたい大まかな”How To”をレクチャーしてもらった時点で、なんと、そのセンパイ、病気で長期入院してしまうことになったというのだ。

で、結局、ほぼ、最初の段階から、義父一人で、作業をはじめなければならなくなったらしい。

(その話を聞いた私は、その時、言った。

「えーーっ?! じゃあ、お父さん、そこからは一人で~?? 大変だったでしょー?!」

ところが、義父は、ケッケッケッと笑いながら、「いや~、それがねー、そーでもなかったの!! それまでに、いろいろ説明は聞いてたからね。 特に困った事はなかったねー。」)

            

義父は、家を建てるために必要な工具を何も持っていなかったので、次の工程、次の工程にすすむたびに、それこそ、ひとつずつ、買い足していったという。

もはや、師匠が近くにいないとなっては、ひとつ終われば、またひとつ、義父の前には、”新しい挑戦”が待っていたけれど、それがどーして、楽しくて楽しくて仕方なかったらしい。

仕事で疲れた日も、完成する日を夢見ながら、来る日も来る日も現場へ向かい、気の遠くなるような作業を続けた。

 

が、そんな義父にも、たった一度だけ、「もう、家を作るの、、、やめようか。。。」と思ったことがあった。

ひとつずつ大切に買いそろえた工具が、ひとつ残らず、盗まれてしまった時。

その時は、思わず、現場に立ちつくしたそうだ。

「なんで、、、。」という気持ちがこみ上げてきて、悲しくて、悔しくて、心にぽっかりと穴があいてしまった。

で、1ヶ月ほどの間、作ることをやめた時期があった。

けれど、ある日、「やっぱり、途中でやめるわけにはいかない。 また、一から始めよう。」という気持ちがモクモク沸いてきた。

そこからまた、作業を再開し、工具をひとつひとつ買いそろえた。

それからは、”絶対に家を完成してやるぞーっ!!”という気持ちが、心の底からこみ上げてきたという。

で、あれやこれや、口出しされると気が散る、、、ということで、義母さえ、”現場立ち入り禁止”にして、作業に集中したらしい。

 

そうやって、1年半後に、ようやく完成!!

義父・37歳、私のダンナさん・3歳の12月に、世界でたったひとつの家の完成となった。                             途中から現場に足を運ぶことさえ許されなったのだから、家族にとって、完成した家は、”ビッグ・サプライズ!!”もいいとこだっただろう。

 

”手作り家”のことになると、30年たった今でも、キラキラキラっと、目を少年のように輝かせて話す義父。

それを、身を乗り出して聞き入る私。。

今まで、何度となく聞いてきたけれど、何度聞いても、興味津々。

いや~、できることなら、私もぜひとも、見てみたかったなあ!!

その昔、”トム・ソーヤの冒険”にでてくる、ハックルべりー・フィンの、木の上の小屋に妙に憧れた私。

ああいう小屋で暮らす友達は、いないものだろうか、、、とマジメに思っていた。

あんな家に遊びに行けたら、どんなに楽しいだろう。。

 

義父の作った家は、今となっては、モノクロの写真の中にしか確認することはできないけれど、あのドアをガラガラーっと開けた向こうは、どんな造りになっていたのだろうか、、、。

考えただけでもワクワクしてしまう。。。

 

P。S。

コメントをたくさん、ありがとうございました。

ミルクの事だって、なんだって、”みんなちがって みんないい”ですねー。

金子みすずは、ホント、いいこと言いました。。

 

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ミルクで子育て

私の次男が、生後1ヶ月の頃、耳鼻科へ行った時のこと。

(耳だれがでていたので。)

私が診察室のイスに座るなり、先生は言った。

「赤ちゃんは、母乳? ミルク?」

私が、「ミルクです。」と答えると、ものすごく強い口調で、「理由は??」。

そして、最後は、「ねー、今から、母乳無理? 母乳、もうでない? お願いだから、今からでも、母乳で育ててあげてくれない?」と、まくしたてるように言った。

その時は、あまりの勢いに圧倒され、ちょっと、、、いや、かなり驚いた。

次男の耳を診察する前でもあったし、あんまり唐突だったので。。

で、それはまるで、”ミルクで育てた子は、健康には育たないわよー!!”と言わんばかりのだった。

 

あの時は、病院を出て、次男の乗るベビーカーを押しながらテクテク歩いていたら、なんだかどんどん悲しい気持ちになって、思わず、携帯で、姉(”ミルクで子育て”仲間)に電話したっけ。。。

母乳育児が叫ばれる中、とりわけ、”ミルクで育てる”ことに対しては、風当たりが強い。

身にしみた瞬間だった。

 

私の子供は、三人とも、ミルクで育った。

そうちゃん(長男・10歳・知的障害アリ)の時は、生まれてすぐに転院して、私とバラバラになってしまったので、私の母乳は、ほとんどでなかった。

だから、ミルク育ち。

私の長女(3歳)と次男(1歳)をお産した病院は、”基本的には、母乳”だった。

けれど、助産婦さんは、「今はね、昔とちがって、ミルクもどんどんよくなってるから、”絶対に母乳でないといけない”って事はないのよ。」

「仕事とか、なにか事情があって、母乳でなくミルクで育てたいということだったら、それはそれでいい。」

と言って、私に選択肢を与えてくれた。

母乳で育てるお母さんも、ミルクで育てるお母さんも、どちらも応援してくれる体制が整っている病院だった。

「ミルクでも、立派に元気に育つから大丈夫よ!」

「極端な話、ミルクを飲んでも、元気に育つ子は育つし、母乳を飲んでも、弱い子は弱いの。」とも。

そこには、”助産婦さん”を越えて、それぞれの人間には、いろんな状況があるという事を理解し、受け入れようとする、”人”としての優しさがあった。

 

私より一足先に出産した姉は、仕事を理由に、ミルクで育てる事に決めた。

私は、赤ちゃんが生まれた時(長女の時も、次男の時も)、正直、どちらにしようか少し迷った。

きっと、そうちゃんに障害がなければ、母乳で育てていたかなあ。。。

けれど、そうちゃんのことを考えると、自分の場合は、ミルクで育てる方がベストだと思った。

生まれてすぐの赤ちゃんは、2~3時間おきに授乳がある。

そういう赤ちゃんを抱えて、そうちゃんとも付き合うとなると、自分一人の力だけで子育てすることは難しい。

 

たとえば、そうちゃんは、虫歯1本治療するのにも、”全身麻酔してからの治療”となる。

(これは、8歳の時、虫歯になった時がそうだった。

先生が安全に治療に専念できる環境を整えるためにも、そうちゃんに、精神的苦痛をあたえないようにするためにも、全身麻酔のこの方法がベストらしい。

そうちゃんは、前日の夜から、絶飲食。

当日は、1日がかりでの治療となった。。)

ここぞという時には、そうちゃんのことは、私の代わりに、誰にでもお願いできるわけではないので、やはり、私の出番は多いのだ。

だから、そういう時のことを考え含めると、”いつでも、赤ちゃんを誰かに預かってもらえる体制”を整えておかなければならなかった。

”私の出番”がやってくるのは、退院して次の日かもしれないし、1ヶ月後かもしれないし、、、。

そのことを考えると、母乳では、いかんせん、パパでさえ、「じゃー、あとは、パパのおっぱいでも飲ませておいて~!」というわけにもいかない。

(母乳を飲みなれると、ミルクは飲まない、、、という話もよく耳にするし。。)

だから、私は、”ミルクで子育て”という選択をした。

(私のまわりも、みんな、そのことを快く受け入れてくれた。

義母も、「3人を育てていくのは、大変よ~。 だから、少しでも、ちはる(私のこと)さんが、楽できた方がいい。 ねっ、ミルクでいこっ! そしたら、私も少しは手伝えるから。」と言ってくれた。)

 

それにしても、この助産婦さんの言葉は、本当にありがたかったなあ。。。

私は、入院中、この言葉のおかげで、ずいぶんと力が抜けて楽になったし、自信をもって、ミルクで子供たちを育てる事ができたと思う。

 

ミルクで育てて良かった事は、突発的なことが起きた時、赤ちゃんを預けられたこと。

そのことは、私にとっては”お守り”のようなもので、「いつでも預けられる」と思っただけで、フワリと私の荷は軽くなった。

そして、”ミルクで子育て”の思いがけない副産物。。

それは、”ザ・夜勤”。

(夜勤=夜中に赤ちゃんにミルクを飲ませる仕事)

ミルクの最大の利点は、私だけでなく、誰でも飲ませてあげられること。

そう、夜だって。。

 

、、、という事で、私は、実家へ行くと、母・よしこに。

家では、週末、ダンナさんに”夜勤”をお願いした。

「ねー、、、あのね、お願いがあるんだけど、、、。今日さあ、悪いんだけど、夜中、赤ちゃんが起きたら、ミルク飲ませてくれない?」、、、なんて感じで言うと、なんだか申し訳なくて、とても何回もは頼めないと思うけれど、”夜勤”という言葉を使ったとたん、これが不思議にイメージがガラリ!

「今日の夜勤、しっかりがんばってねー! たのんだよ~。 じゃー、おやすみなさーい!!」

このセリフで、私は、まったく爽やかに、週末は、私だけのお布団が敷いてある別の部屋(私以外の家族は、和室で雑魚寝。)へと消えていけた。

起こされずに朝まで寝れる、、、ということが、こんなにも爽快なものなのか、、、つくづく感じ、大満足の夜だった。

そして、たっぷり寝て、目覚めた朝は、気分もスッキリ。

これから1週間ぶんのエネルギーを補充できた。

 

”お母さんになるということ”は、”一つの命を預かること”だと思う。

それは、意識はしていないけれど、大変なプレッシャーのかかることだと思う。

その上、”こうでなければならない。” ”こうあるべきだ”と、一つ一つを頭ごなしに言われたら、”お母さん”は、逃げ場を失い、本当にきつい状況に追い込まれてしまうことも多いと思う。

 

私だって、赤ちゃんの事も、そうちゃんの事も、、、どれもこれも頑張っていたら、きっと、途中で息が切れていただろうなあ、、、。

そんなこんなを思うと、私の場合は、”ミルクで子育て”で、本当によかった。。。

 

P.S.

コメントをどうもありがとうございました。

出産は、やっぱり重労働なんですね。

私のおばあちゃんの世代は、病院でなく家で、 6人も7人も産んでいたんですから、すごいですね~。

でも、そのぶん、まわりの人と助け合って、きっとワイワイと子育てしていたのでしょう。

それも、楽しそうですが。。

 

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長女・次男のお産の時~病院にて<後編>

前回ブログのつづき

 

いや~、”赤ちゃんにミルクを飲ませること”が、こんなにも大変とは、、、!!

想定外だった。

 

そうちゃんの時は、生まれてすぐ転院したため、私は、入院している間、一度も、赤ちゃんにミルクをあげることができなかった。

あの時は、赤ちゃんにミルクを飲ませている、まわりのお母さんたちをみて、”いいなあ、、、。”とは思ったけれど、”大変そうだな、、、。”なんて思ったことはなかった。

元気な赤ちゃんが生まれたお母さんたちは、”ラララララ~”とハミングしながら、赤ちゃんを見てはニッコリ笑い、赤ちゃんが泣いても、”は~い、ミルクかしら~?”と言いながら、にっこり微笑み、美味しそうにミルクを飲む赤ちゃんをウットリ眺め、病室で、それはそれは優雅に過ごしているとばかり思っていた。

 

が、実際は、そんなに甘くなかった。。

なにしろ、生まれたばかりの赤ちゃんは、“泣く・寝る・飲む”の三本柱で何が何でもやりとおす。

で、この、”飲む”、、、。

病院では、”3時間おきに授乳を”という取り決めがあるのだけれど、相手は、どこから来たとも知れぬ、ナゾの赤ちゃん。

そんな取り決めは知りません、、、とばかりに、最初からキッチリ時間通り、一気にゴクゴク飲む、、、というハズもなく。。。。

おっぱいやミルク(私は、ミルク。)をあげる側のお母さんも不慣れでもたつくし、飲む側の赤ちゃん、こちらもビギナーときているので、もう、お互い必死だ。

(ちなみに、私が赤ちゃんに哺乳瓶でミルクを飲ませているとき、看護婦さんが私に向かって叫んだことがあった。

「まあ~~~、お母さんっ(笑)!! 赤ちゃんの舌の下に乳首を入れて、赤ちゃんは、どーやって飲みますかー!!」

こんなお母さんだと、赤ちゃんは、より一層大変だ。。。)

 

で、このミルク、あらかじめ、”○○cc飲ませる”というノルマがあって、飲んだ量だけ、記録をとっていくシステムになっていた。

飲ませるミルクの量も、毎日10ccくらいづつ増やされる。

中には、キュッキュッキュッキュッと、あっという間に飲んでしまう赤ちゃん(大きく生まれた赤ちゃんに多い模様。)もいたけれど、私の長女と次男は、飲みたいという欲よりも、ぐっすり眠っていたいという欲の方が勝っていたようで、ミルクを一気に飲んでしまうということがなかった。

 

で、その病院、”お母さん”が飲ませてみて、それ以上飲まないようだったら、駆け込み寺(授乳室)へ行き、ベテランの看護婦さんの指導を受けながら飲ます、、、それでも飲まないときは、最後、看護婦さんに飲ませてもらう、、、というシステムにもなっていた。

その駆け込み寺、看護婦さんは、みんな親切でやさしい方ばかりで、とっても和やかな雰囲気なのだけれど、”残りのミルクを飲み終わらせないことには、簡単にはその部屋から出られない。”という雰囲気も、暗黙の了解の中、同時にあった。

(そこに集まる赤ちゃんの顔ぶれは、なぜかいつも決まっていた。

小学校の給食の時間、全部たべるまではずっと教室に居残りさせられ、泣く泣く、仕方なく食べている子供たちの光景に似たものがあった。)

本当は、眠たくて仕方がなく、ゆっくり寝ていたいのに、無理やり口に乳首を入れられ、いやいや飲む赤ちゃん、、、。

”やっと飲んでくれたー!!”と思ってホッとしたのもつかの間、「あらっ、もう次のミルクの時間?!」、、、という事の繰り返しだった。

 

それにしても、やはり、”プロ”は大したもので、私からはミルクを飲むのを拒む赤ちゃんを、バトンタッチして看護婦さんに渡すと、赤ちゃんは、思い直したかのように、ゴクゴクゴク、、、と再び飲み始めるのには驚いた。

看護婦さんは、赤ちゃんが、”ミルクは、もういい!”と顔をしかめても、寝入ってしまってでさえ、赤ちゃんの足の裏を”コチョコチョコチョっ”とくすぐっては、そのすきに、サッと乳首を口に入れ、”クククククっ”と微妙に乳首の角度をかえ、赤ちゃんをに飲ませた。

まさに、職人技だった。

私が無理に飲ますと、赤ちゃんは、「オエ~っ!」と言って、せっかく飲んだミルクを吐き出すことすらあったのに。。。

 

で、ある時、その”職人技”を、私なりに盗み、マネしながら、私が赤ちゃんにミルクを飲ませている時、部屋に来ていたよしこが言った。

「ねー、もう、飲まないんじゃな~い?  嫌がってるじゃない。」

「そうなんだけどさー、これ、飲まないと、駆け込み寺(授乳室)に行かなくっちゃでしょー。  これ、ノルマだからさっ。」と私。

すると、よしこは、「もういいわよ。 無理に飲ませないで。 あとちょっとなんだから、ミルク、捨てちゃいなさいよー。」と言って、洗面所を指差した。

「えっっ??」と驚く私に、よしこは、すまし顔で、「り香(私の姉のこと)なんて、いっつも、そこに捨ててたわよ~。」

赤ちゃんのノルマのミルクを捨てるだなんて、、、!

そっ、、、そんな事をする姉も姉だが、それを勧めるよしこもよしこ!!

けれども、「あっ、そうなの~?! なーんだ、早く教えてよ~!!」と言って、迷わず、洗面所に向かった私も私であった。。。

 

ミルクとミルクの合間に、やれ、お風呂の入れ方だ、退院後の生活指導だ、お食事会だ、、、と、いろいろあるので、産後のお母さんは、ゆったり過ごす時間が想像以上にないことにびっくりした。

これはいけない。。。

退院したら最後、24時間体制で、今度は自分一人で赤ちゃんの世話をしなければならない。

ならば、楽できる時は、楽しよう。

、、、ということで、私は、こういうよしこからの悪知恵や、「夜は、希望すれば、赤ちゃん預かってくれるから、絶対に預けた方がいいよ。 退院したら、これからずっと、つきあわなきゃいけないんだから。」という、姉のアドバイスに素直に従い、力を抜けるところは、全て抜いた。

(で、実際は、そうやってエネルギーをためておいて、夜、赤ちゃんを預けた後は、本や雑誌をガーッとよんだり、ビデオを片っぱしから見ては、一人、泣き、笑い、、、と、かなりの夜更かしをした。

退院したら、こういう時間をもつことは当分ないな、、、と思ったので、なおさらに、私にとっては貴重な時間だった。)

 

出産の日、、、。

それは、ついさっきまで、お腹をさすりながら、「あ~か~ちゃん。」としゃべりかけ、天使のような存在をイメージしていた日々から一転、しばらくは、赤ちゃんという、小さな独裁者に振り回される日々の幕開けでもあった。。。

 

P.S.

今、”佐賀のがばいばあちゃん”(島田 洋七著・全3冊)、読み終わりました。

笑って、、、泣きました!!

子育てのエッセンスがいっぱいです。。。

 

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長女・次男のお産の時~病院にて<前編>

「私ね、帝王切開。」と言うと、「えーっっ! 帝王切開だったのー?!じゃあ、大変だったねー。」とみんなに驚かれる。

けれど、子供三人とも帝王切開だった私にとっては、この世の痛みとは思えないほどらしい、”鼻の穴からスイカをだすような感じ”という表現があるほど、”とにかく痛い”、自然分娩でのお産というのも、私には恐怖であり、ちょっと想像がつかない。

昔から、しっかり者の姉を頼りに、おっちょこちょいの母・よしこにさえ、もたれかかって育ってきた私は、お産の時もまた、例外なく、病院の先生を頼りきった、、、という意味では、”帝王切開”は、私らしいお産だったのかもしれない。

 

帝王切開は、産後、切腹したところが完全に痛くなくなるまで時間がそれなりにかかるし、産後すぐから、スタスタと歩けるはずもなく、2日くらいはベッドに寝たきりなので、もちろん、大変といえば大変。

でも、私にとっては、手術日(出産日)が事前に決められているというところが、とてもありがたかった。

前々から、子供たちを誰に預かってもらうか、私が入院している間、誰に何をお願いするのか、この日は、こういう計画で、、、と、スケジュールをしっかりくめた。

そして、自分の気持ちも、手術日に向かって着々と整理できたところが最大の利点だった。

 

帝王切開当日の処置の一つに、”浣腸”があるのだけれど、これには、毎回、泣かされた。

私にとっては、一大事!

”たったそれだけのこと”、、、と言えばそうなのだけれど、いつも、看護婦さんに言われた時間をガマンできずにトイレに駆け込んでいた私。

そして、トイレの中で、最初の15分は、どーにもこーにも、お腹がゴーゴーなるばかり。

痛くて痛くて、あぶら汗がポタポタ、、、身をよじらせた。

普段、便秘だからこういう事になるのか、どうなのか、、、その辺はよくわからないのだけれど、この痛さが並じゃなく、自分の力では、どーすることもできない類の痛さなので、この処置のたびに、「たかがこれしきのことでこんなだったら、、、私には、自然分娩なんて、到底無理だ、、、。帝王切開で正解だ!!」と、トイレの中で、一人、深くうなずき、納得した。

だから、この”浣腸”のおかげで、私は、自然分娩に少しもこだわらず、なんの未練もなく、帝王切開の手術にのぞむ事ができたと言っていい。

 

「それでは、まいりましょうか。」と、看護婦さんが手術室へ向かうため、車椅子をもって、部屋にむかえに来てくれた瞬間は、さすがに、一瞬、”このまま逃走できるものなら逃走してしまいたい”気持ちと、心細いような、なんともいえない気持ちになったけれど、これが、手術台の上にのったとたん、一転、「もう、全てをお任せします。先生、どうぞよろしくお願いします。」と、寝ころがったままの姿勢で、深々と頭をさげずにはいられない気持ちになった。

そして、どういうわけか、”あー、これぞ、まな板の上の鯉。”と思ったとたん、家でよく弾いていたピアノの曲(ショパン)がスルスルスルスルと流れてくるほどの余裕が、、、、。

”もー なるようにしかならないね~。”と、あっさりさっぱり、達観する自分がいた。

 

手術がはじまると、今度は一気に、”手術に対する怖さ”から、”まもなくお腹の赤ちゃんに会えるドキドキ”の方が強くなった。

とはいえ、そのドキドキの中でも、やはり、”元気にうまれてきてくれるか”、、、それだけは、気になった。

でも、最後の最後、この土壇場の手術台の上で思ったことは、ただひとつ。

「ああ、、、。もし、赤ちゃんになにかトラブルがあったとしても、もう、仕方ないな。赤ちゃんを産むということは、自分で決めたことだから。。だけど、外(手術室の外)で、生まれてくる赤ちゃんを固ずをのんで待っている、よしこやダンナさんたちだけは、もう、悲しませたくない!!」ということ、それだけだった。

これは、長女の時も次男の時も、まったく同じ思いだった。

 

長女のときは、2480gで生まれたので、生まれてから2~3日は、保育器に入ることになり、(2500グラム以下で生まれた場合は、保育器でしばらくすごさなければいけないらしい。)生まれてすぐの赤ちゃんに会うことはできなかったけれど、次男の時は、手術が終わって部屋にもどって間もなくすると、看護婦さんが、「はじめまして。お母さん。」と、私のベッドまで次男を連れてきて、顔をみせてくれた。

そして、ちょっとの間だけ、私の寝ている横に添い寝させてくれた。

私は、まだ麻酔がきいていてボーっとしていたのだけれど、そのとき、私の肌にふれた、生まれたての次男のぬくもりは、きっと忘れる事はないと思う。

あたたかかった。。

 

手術から数日たつと、トイレまで歩いていけるようになった。

姉の二人の子供と、私の長女と次男は、同じ病院で産まれた。

で、お産で先に入院した姉から、病院でのいろんな情報を教えてもらっていたので、私の入院生活は、さらに、楽しいものとなった。

その病院、”先生”、”看護婦さん”、”スタッフさん”、”豪華なお部屋”、”美味しい食事”、、、と、何をとっても最高の病院だった。

そうちゃん(長男・10歳・知的障害アリ)のお産の時は、そうちゃんが生まれた次の日、大学病院に運ばれてしまい、、、と、いろいろあったので、私は、長女・次男の時は、思いきり、そのぶんを挽回すべく、入院生活を楽しもうと、入院前から、ずっと心に決めていた。

だから、入院していた9日間は、ちょっとした旅行気分だった。

 

部屋でゆっくり美味しいご飯を食べ、3時のおやつも残すことなく食べ、アロマの香りで部屋を満たし、ビデオをかりまくっては、夜中、ずっと楽しんだ。

(夜は、希望すれば、赤ちゃんを預かってくれる病院だったので。)

入院中、2度ほど、お産で入院しているお母さんたちとの会食があった。

最上階にある、全面が窓に囲まれた、明るい素敵なテラスで、みんなとペラペラしゃべりながら、ごはんを食べた。

これもまた、”そうちゃんの時、叶わなかった私の夢”だったので、みんなにとってはフツウのことなんだろうけれど、私は、ニーッと笑いが出るほどうれしかった。

その病院では、マッサージまでやってくれた。

う~ん、快適、快適。。

ホントに快適。。。

けれど、こんな入院生活の舞台裏は、ひたすらに優雅なだけではなかった。

 

次回につづく。

 

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私と姉が妊婦だったころ~その2

こんな感じで、私たちは、妊娠中、底なしの食欲を共有しつつ、だんだんとお腹が大きくなるにつれて、仰向けには寝られなくなったり、「よいしょ。」とかけ声をかけないことには立てなくなったり、、、、。

電話のたびに、そんなこんなの、”妊婦とは、いかに不自由できついものか。”ということを、あつく語り合った。

 

だいたい、妊婦になったとたん、たった2~3枚のマタニティで、乗り切らなければならなくなる。

もちろん、オシャレな人だったら、そんなのは耐え難いことであり、すぐさま飛んで行って、もう2~3枚は、買い足すことだろう。

けれど、私と姉は、こういうところは、とても似ている。

私たちは、”どうせ、この、ありえないような、とんだ体型なのだから、どんなかわいいマタニティを買い足しても、たかがしれている。”、それに、”期限限定で、来年はもう、逆立ちしたって、その服を着ることはないんだから、そんなムダなもの、とても買う気になれない。”という結論に達した。

、、、ということで、たった2~3枚しかないマタニティと、はきやすいペッタンコ靴、、、まあ、せいぜいバックくらいは変えたとしても、ほぼ毎日が、”制服”状態で、私(たち)は、妊婦時代をやり通した。

、、、で、出かけるときに、オシャレできない事は、つまらないことではあるけれど、だんだんと慣れていくと、なーに、これがどーして、まったく気楽でいいもんだね~、楽チン楽チン、、、という話にもなった。

 

最初こそ不安が走った私も、姉という、”たわいのないことをペラペラしゃべれる妊婦仲間”がいたおかげで、”もう、あとは、ドーンといこう~!”

日々、忙しいのも手伝って、コチョコチョと細かく心配する暇もなく、”あとは、ゴールに向かってすすんでいくのみ!”

私と姉は、タグをくみ、出産のその日まで、なかなかどっしりとかまえた。

 

が、そんな私たちを前にして、冷や汗者だったのは、父と母・よしこ。

よしこは、私たちの大きくなるお腹を見ては、”こわい!” ”ママ、こわいわっ!!”、、、と言っては、ブルブルっとふるえていた。

だって、なんといっても、私の両親にしてみれば、初孫が、そうちゃん。

そうちゃんが、生まれてすぐから、いろいろと心配させてくれたので、特に、よしこは、”出産”という事に対して、私以上に、ものすごくキョーフ心を抱いていた。

そうちゃんの後、姉の一人目の子供、そして、私の長女が元気に生まれてきて、ホーッ。

ようやく、ホッと胸をなでおろしたところでの、よしこにしてみれば、”まさか”の、姉と私の妊娠。

 

私と姉は、俗に言う、”高齢出産”になる上、二人とも、帝王切開だった。

そのことが、さらに、よしこを不安におとしいれた。

「どーして、うちはみんな、帝王切開なのかしら? ママの友達の子供は、みんな、普通に産んでるのに。。。 手術中になにかあったら、ママ、どうしよう、、、。

どんな手術でも、絶対に大丈夫ってことは、ないんだから。。

こわい! ママ、こわいわっ!!」

 

たしかに、姉妹そろって、”帝王切開”というのは、珍しいかもしれない。

(よしこにしてみれば、孫5人中5人が帝王切開。

私は、そうちゃんの時、”赤ちゃんが自然分娩に耐えうる力がない。”と言われ、帝王切開に。

姉は、逆子のため。

一度、帝王切開すると、安全を考え、二回目以降も帝王切開をすすめられる。

ちなみに、私のダンナさんのお兄さんのところも帝王切開。

姉のダンナさんの妹さんも帝王切開。

、、、とにかく、見渡すかぎり、みんなそうなのだから、こんな家も珍しいかもしれない。。)

 

本当に、よしこには、心配かけてしまった。。

けれど、「人間、回数を重ねるごとに、”恐怖心”というものも、少しずつ薄らいでいくものらしい。」、、、ということを、よしこをみて、私は学んだ。

いつも、よしこの恐怖心は、帝王切開の手術の日をピークに、どんどん強まっていくものだったが、さすがに、姉の長女、私の長女、姉の次女、私の次男、、、の順で、よしこの、その過度な緊張感は、少しずつ緩和されていくようだった。

で、私の次男の時は、さすがに、これで一連のお産ラッシュも最後、、、という事もあってか、気が抜けたのか、私以上に、よしこは動じていないようだった。

 

長男が生まれる数日前、私たち家族みんなで、ごはんを食べに行った時のこと。

食べ終わってお店を出るとき、お店の人は、私のお腹を見て、「予定日はいつごろですか?」と聞いたので、私は、「もうすぐ出産なんです。 帝王切開で、来週の水曜日に生まれるんです。」

(帝王切開は、事前に、手術日が決まっている。)

すると、「ま~っ! あと3日? 食事になんて出かけて大丈夫ですかー?」

そんな会話を、お店の出口でしていた。

そこに、よしこが、ツカツカと歩いてきて、「あらやだ~。 なに言ってるの、ちはる(私のこと)ちゃん。 赤ちゃん、来週じゃなくって、その次の週だったでしょ~?!」と言ったのだから、驚いた。

 

手術の前日、よしこから電話がかかってきた時も。。。

「いよいよ明日ねー、、、。 ねー ちはるちゃん。。。」と、よしこが言うので、私は、よしこは、これから何て言うんだろうと、一瞬、身構えた。

きっと、長女の時のように、泣きながら、”元気な赤ちゃんが生まれることを、、、祈ってるわ、、、。”なんて事を言うと思った。

が、よしこは、「ね~ ちはるちゃん。 お願いだから、今度は、かわいい~かわいい~赤ちゃんを産んでちょうだいよー! がんばってね~!!」と、とてもリラックスした声でサラリと言った。

そして、その後すぐ、「あっ、ごねんなさ~い。 赤ちゃん(1ヶ月前に生まれた姉の子供)が泣いてるわ、、、。 あらっ、もう、ミルクの時間だわ、これから飲ませなくっちゃ。 じゃ、電話、切るわよ~。 じゃっ、また明日ね~。」と、よしこ。

ガチャっ。(電話を切る音)

「ん、、、?? はーっ???」

私は、受話器を持ったまま、カクッと力が抜けた。

今まで、さんざん怖がってたわりには、まったくよしこは、物足りないくらいに、あっさりとしたものだった。

で、”かわいい赤ちゃん”だなんて、そんな事、出産前日に言われても、、、いったい、どうがんばったらよいというのだろうか、、、、。

 

手術の当日も、よしこは、ダンス教室で、ひと踊りしてから来る、、、という余裕ぶり。

いつもの予定を淡々とこなした上で、病院へやって来た。

それまでは、帝王切開の日には、家族総出で、手術室の前で待つ、、、という恒例行事も次男の時にはなく、ギャラリーは、ダンナさんとよしこの二人のみ、、、と、なぜか、ひっそりしたものだった。

 

それにしても、経験を重ねることは、スゴイことだ。

恐怖心や苦手意識を克服するには、こうやって、経験を積み重ねて行くこと以外に、どうやら道はないらしい。。。

 

P。S。

コメントをありがとうございます!

今でこそ、”仲のよい姉妹”と言われますが、子供の時は、とてもとても、、、。

姉は、常に、ケンカ仲間で、目の上のタンコブのような存在。

たまに、修学旅行とかで姉がいなくなると、うれしくてうれしくて、、、!!

(夜には淋しくなっていましたが、、、。)

だから、私の子供にも、小さい時は、いろいろと競い合って、奪い合って、、、大いにケンカをしてほしいと思っています。。

 

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私と姉が妊婦だったころ~その1

思えば、私と姉は、長く”妊婦仲間”だった。

私の長女(3歳)がお腹にいた時も、次男(1歳)がお腹にいた時も、そう。

長女は、姉が上の子供を出産した半年後に、次男は、姉が下の子供を出産した1ヶ月後に生まれた。

だから、次男の時は、ほとんど同時期、姉妹で妊婦だったことになる。

 

長女がお腹にいるとわかった時、私は、本当にうれしかった。

けれど、なにしろ、そうちゃん(長男・10歳・知的障害アリ)以来、初めての妊娠(6年ぶり)ということもあり、”今度は、元気に生まれてきてくれるかなあ。。。。”という思いが、私の頭をよぎり、不安でもあった。

そんな中、先に妊婦になった姉は、暗くて見えにくい道をペンライトでピコピコ明かりを灯しながら、”ほら、ちはるちゃん(私のこと)、こっちこっち!”と手招きしてくれる、いわば、私の”先導役”のようなものだった。

「だれだって、元気な子供が生まれてくるって保証はないんだからさっ。 考えるだけ無駄だよ。」という姉に、私は、「そうだよねっ! そうだよねっ!!」。

 

姉の赤ちゃんが生まれた時は、自分のことのようにうれしかった。

生まれたての赤ちゃんの顔をのんびり病室でジーッと見るのも、ゴックンゴックンとミルクを飲む様子を見るのも、そうちゃんの時に叶わなかった”私の憧れ”だったので、うれしくてうれしくて毎日のように姉の病院へ通った。

私は、姉の病室で、赤ちゃんをだっこしたり、手をさわったり、足をさわったり、、、ゲーッとげっぷしたり、ブッとオナラしたりするのを見たり、、、そうちゃんの時、味わえなかったことを存分に楽しんだ。

そして、姉は、出産後も、私に赤ちゃんが生まれるまで、「もうすぐだねー。」 「あとちょっとだねー。」と言っては、ずっと気にかけてくれた。

(今、思えば、私は、”マラソンランナー”で、姉は、”沿道から旗をふって応援してくれる人”のような存在だった。)

 

次男がお腹にいる時は、姉は、1ヶ月センパイの妊婦さん。

私たちは、携帯で、それはマメに連絡をとりあっていた。

「どー 元気?」から始まり、次は必ず、「今日は、何食べるの?」か、「今日、何食べた?」。

続いて、「何キロ増えた?」

この3つは、私たちの合言葉になっていた。

そう、私と姉が妊婦になってからというもの、最大の関心は、”不思議な食欲”。

妊婦になったとたん、ホルモンの関係だと思うけれど、恐ろしいほどの食欲がわいてきた私たち姉妹。

食べられるものは、すべて食べてみたくなるほど、食に貪欲になった。

一方で、病院では、”体重増加は10kg以内にしましょう!”、、、と、検診のたびに、厳しく体重チェック(体重管理)されるので、私たちは、”試合前のボクサー気分”を味わっていた。

私のまわりの友達も、「そうだった! そうだった!!」という人は多いけれど、あの時の私たちの食欲は、郡を抜いていたと思う。

 

それまで、一応、セーブしてきた私たちも、出産まであと少し(姉は1ヶ月前・私は2ヶ月前)というところで、二人してタガがゆるんだ。

で、いろんなところを渡り歩いては、ごはんを一緒に食べに行った。

ある時、姉が、「赤ちゃんが生まれたら、しばらくはゆっくり美味しいもの食べに行けないから、今のうちに、行っとこうよ。」と言って誘ってくれたのが、フランス料理のお店。

ランチは、いくつかのコースになっており、姉がおごってくれると言うので、私は、「えっ いいの~? じゃー、これ。」

遠慮なく、高い方のコースを食べる事にした。

 

そのお店のお料理の美味しかったこと、美味しかったこと!!

前菜・スープから、ボリューム満点で、メインは、フランス料理らしく、しっかりまったりした味。

パンも、何種類もあり、「せっかくだから、、、、。」と、全ての種類を食べた私たち。

デザートにいたっては、「お好きなだけどうぞ。」と、お店の方が言ったとたん、二人、顔をあわせて、ニーッ(笑い)。

スックと立ち上がり、私たちは、駆け足でお店の中央にあるテーブルへすすんだ。

そこには、バイキング形式の、目にも眩いケーキやアイスクリームやプリン、、、果物もあれやこれや盛ってあった。

大きなお皿に、”これも~ あれも~”

いろんな種類のデザートを盛り合わせて、おなかいっぱい食べた。

お店を出た私たちは、「いや~ 来てよかったね~!! また、赤ちゃんが生まれたら、いつか、来よう!!」

大満足だった。

帰り道、私たちは、最近行ったお店の中で、ここが最高のお店だったと賞賛してやまなかった。

 

ところで、その後のそのお店の評判だが、、、、。

この間、姉家族が実家に遊びに来ていた時のこと。

母・よしこから、「今日はね、ほら、最高に美味しかったって言ってたあのお店に、今からみんなで行くのよ~。 楽しみだわ~。」と電話があった。

私の両親と姉と姉のダンナさんの4人で、これからランチを食べに行くのだという。

で、次の日、私が実家に遊びに行った時、そうそう、、、と思い、聞いてみた。

「ねーねー、昨日どうだった?」

すると、4人とも、シーン。。。

で、4人とも、二ーっと、苦笑い。

一番最初に口を開いた父は、「いや~ もう、二度と行きたくない。。」とボソッ。

よしこは、「もーねー、久しぶりよー。 食べたあと、あんなに気分が悪くなったの。 トイレであぶら汗がでたわよ~。 昨日は、帰ってから寝込んじゃったわよ~。」

サッと義兄を見ると、義兄は、大きなため息をひとつついた後、「やー、、、もーいい。。 もー、あそこはいいって感じ!」

 

あの3人を、そこまで言わせるなんて、よっぽどだったんだろう、、、。

私は、みんなが、てっきり、「最高~! おいしかった~!!」と言うものとばっかり思っていたので、すっかり拍子抜けした。

で、姉は、すっぱりと私に言った。

「ねー、昨日行ってね、あの時のりか(姉のこと)たち、つくづく普通じゃなかったってことが、よ~くわかったよ。。 あのコース料理を全部残さず食べて、デザート・パンをあの量食べたってことが、信じられない。 何もかもがこってり味で、この間、ちはるちゃんと行った時の半分も食べられなかったんだからー。。。」

その後、私と姉は、”いや~ ホルモンってのは、本当に恐ろしいもんだね~!!”という話で盛り上がったが、そばにいた3人(父・よしこ・義兄)の視線は、実に冷ややかなものだった。。

誰かが、テレビで言っていたけれど、妊娠したとたん、家のツチ壁を食べてみたい衝動にかられて仕方なかったらしい。

食欲のみならず、嗜好まで変えてしまうホルモンって、すごいなあ。。。

 

P.S.

”この夏の適温”にコメントをどうもありがとうございました。

seetfortwoさん。

「お布団かかってるかな?」と心配して何度も目を覚ますのは、うちでは、ダンナさんの役目です。

私は、寝てしまうと、よほどじゃないと起きないので(わざとじゃありませんよ~っ!)、冬の朝起きた時、冷たくなった子供を前に、いつも申し訳なく思います。

なので、ジャンプスーツの登場となりました。。。

スリーパーもよさそうですね。 大人用もあるのでしょうか。。

この冬、参考にさせていただきます!

ciao!さん。

博士みたいな髪型、、、、それはまさに、うちの次男ですっ!!

 

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